ウッホの感想ブログ

映画、テレビドラマ、本の感想と時々日記を書き連ねるブログです。

「午後の日差し」萩尾望都著

100分de名著の萩尾望都特集に惹かれて購入した「イグアナの娘」に載っていた一編。

漫画は「イグアナの娘」読みたさに購入したけど、正直イグアナの娘は番組のなかでかなりネタバレしていて、そこで観たとおりでもあった。だから、この作品が印象に残った。

「ムーの一族」とか「イグアナの娘」だとかとはかなり毛色のちがう作品。

なにしろ、夫と倦怠期を迎えた42歳の主婦の女性が、料理教室のふた回り近い若い男の子に惹かれていくという話である。

物語は、夫に「夫婦は他人だからな」と告げられるところから始まる。

テレビを見ながら夫が何気なく言ったその一言に、主人公・賞子は大きなショックを受け、それまでふつうにしていた夫へ尽くす行動の逐一に「他人の私がなぜこれを」と引っかかる。

賞子は料理教室で出会った25歳の男の子・海部くんに淡い恋心を抱くも、彼は娘の予備校の英語講師になり、娘のひとみも彼に惹かれ始める。それに気付いた賞子はさらりと身を引き、「一番近い他人」の夫との日常に戻っていく。

萩尾望都の作品を実際に読んだのはこの一冊だけだけど、100分de名著で特集されていたイメージとはかけ離れていて、こんな現実的な話も描いてたんだ!とびっくり。

大変日常的な話だけど、話の裏テーマには「女の子なんだから」という言葉のはしばしに反発する娘・ひとみや、「当然のように結婚して、主婦して、子供産んで、それで古いタタミだとか言われたら虚しくない?」など、「女」という生き方への決めつけ方への反発のようなものが感じ取れる。当時こういうテーマは早かったのかな。それともちらほらあったんだろうか。

一番すばらしいと思ったのは、賞子の、海部くんへの気持ち、いや、それだけじゃなく「女なんだから」と決めつけられることへの反発や、夫の浮気への怒りなど、すべての感情の輪郭のぼやけ方を「午後の日差し」と例えているところだ。

「女の子だから」を連発する賞子にひとみは反発し、「ママは女なのに、女だからと規定されて苦しんだことないの」と怒るひとみを、「鮮烈なまひるの陽(なんで真昼がひらながななんだろ)」と例える。それと比較し、賞子は自分の諦めなのか、検体なのか、輪郭のぼやけた感情を「午後の日差し」と呼ぶ。

大人になると許せることが増えてくる。日常を円滑に回せるように、納得することも自分自身を納得させることにも慣れてくる。いつか「怒りの感情が湧かなくなるのが不安」だと誰か(たしか作家の羽田圭介さん)が言っていた。たしかにその不安感は自分にもある。

まあ人それぞれだからとか笑った後に、砂のようにならした感情に一瞬ざらつくのである。

怒ったときの私を眺める母の眼が、諦念というか、「すげえエネルギーだな」とどこか寂しく見えるのも、賞子がひとみをみるような気持ちで見ているからなのかもしれない。

許せることが増えるのはラクになることでもあるけど、一方でさびしいことでもある。

そんな賞子が、どうやら娘のひとみと海部が連絡を取り合ってるようだと感づいたあとの身のこなしも見事である。私が一番リアリティを感じてすごいと思ったのはここだった。

料理教室で、海部くんと世間話をしながら、何気なく海部くんがひとみにプレゼントしたスポンジについて冗談交じりに話す。話せるのである。これぞ大人。

でも感情はぼやかせても、消えるわけじゃない。

賞子は、海部くんが漏らしたひとみへの「ああいう子、すきだから」という一言に涙ぐんでしまう。だけどそれに気付く人はいない。賞子はその気持ちをひっそり抱え、「はきはきとものいう明るい日差しのなかで恋をする」娘を見守るのである。

なんという切なさ。

人間て正午以降がいちばん切ないじゃないか。

午後の日のなかで生きている大人が抱える寂しさと切なさを的確に捉えていて、ほんとうに見事だと思った。

にしても、昔から、それこそ小学生ぐらいの頃からこの手の女性の話がすきなのはなんでだろう。自分の趣味も変わらないなあ。