森絵都「風に舞いあがるビニールシート」
森絵都さんの小説が好きだ。
湿っぽくなり過ぎないカラリとしたユーモアも、わくわくさせる物語の運びも好きだが、そもそも文章が素晴らしいのである。
単に文体がすごいとかそういうことだけでなく(そういうこともなんだけど)、森絵都さんの小説には時折自分の一生に貫いてしまうような一文があり、私は今でも森絵都さんの小説のなかで出会ったいくつかの文章が体に刻み込まれたまま生きている。その一文とは、森絵都さんの小説にしかない「哲学」であるように思う。
本書は、いくつかの物語に分かれた短編小説ながらも、その哲学がバーベキューの肉や野菜を束ねる竹串みたいに一本突き刺されているような印象を持った。
そもそもあんまりにも内容を忘れていて驚いた。
私が今もよく覚えていたのは、冒頭のある天才パティシエを守ることに命をかける「器を探して」と、社会人になって間もない青年が草野球を計画する「ジェネレーションX」。
その二つもさることながら、今回は特に表題作の素晴らしさが胸に残ったのだけれど、すっかり忘れていたのは最初に読んだのが早すぎたせいだろうか。
本書では、あらゆる分野である一つのことに情熱を注ぐ人たち、又はその周囲にいる人たちが登場する。
ある人は天才パティシエの作るスイーツに。ある人は仏像に。ある人は捨て犬たちの保護に。ある人は社会人学生をサポートすることに。ある人は世界の難民たちに。またある人は10年に一度の草野球の約束に。
皆一様に、その人ならではの基準、本書の文章を借りるならばその人のなかの「牛丼」を持っている人たちだ。
そういった牛丼を持った人たちについて、「いかなる既成概念にもよりかからない、凛とした個の光ーー女としてどうの、人としてどうのという以前の、生物としてのまぶしさ」があると書かれ、そうして、この小説では一貫してそのまぶしさを描いている。
ただし、そういったものを持ったほうが人生は幸福だとか、幸せなのだなどとは描いていない。
むしろ「幸せとはおそらくあれぐらい気もそぞろに生きること」であるとしながらも、幸福とか不幸かとか、そんなところでの測れない尊さを描いているように思った。
10年前にこの本を読んだ私はパティシエのケーキを守ろうとした女性や、草野球の約束を守ろうとした青年のまぶしさを見たのだと思う。
人生の、得や損や、幸福や不幸といった基準で測れないもの。
それが森絵都さんの小説のテーマの一つなのかな。
今回再読してみて、またいくつかの文章が体のなかに刻み込まれて、今後私は何度も体のなかのその一文を読み返すことになるんだろうなと思った。